2014年11月24日星期一

宇崎竜童

宇崎 竜童(うざき りゅうどう、1946年2月23日 - )は、日本のロック歌手、作曲家、俳優、映画監督。京都府京都市出身。 1970年代中期から1980年初頭にダウン・タウン・ブギウギ・バンド、1980年代中期から1990年代初頭に竜童組、1990年代中期から後期に宇崎竜童 & RUコネクション with 井上堯之を率い、バンドの活動の合間にソロとしても活動する。妻は作詞家の阿木燿子で、「作詞阿木・作曲宇崎」のコンビは山口百恵の全盛期を支えた。 略歴[編集] 京都生まれだが、東京・代々木上原育ち[2]。父親は船具店を経営しており裕福な家庭だった[2][3]。1973年、「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」を結成[1]。シングル『知らず知らずのうちに』でデビュー。1974年に出した『スモーキン・ブギ』がヒットし、つなぎルックと共に脚光を浴びる。さらに翌年リリースしたシングル『カッコマン・ブギ』のB面曲である『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』が大ヒット。曲中のセリフ「あんたあの娘のなんなのさ」は流行語にもなり一世を風靡した。また、この曲をもとに映画まで作られた。 1980年、バンド名を「ダウン・タウン・ファイティング・ブギウギ・バンド」に改名、翌年解散。これ以前から山口百恵等に作曲家として曲を提供したり映画『曽根崎心中』(1979年)、『TATOO(刺青)あり』(1982年)に主演するなどしていたが、解散後はさらにドラマ出演、映画・舞台音楽や監督など多方面に進出。1984年、今までにない新しい音楽にチャレンジするために「竜童組」を結成。その活動舞台は日本国内のみならず、世界各地にまで広がった。1990年に活動休止。 1993年、元ザ・スパイダースの井上堯之と共に大人のロックバンドを目指すため、「どちらかが死ぬまで続けよう」との約束で「宇崎竜童 & RUコネクション with 井上堯之」を結成。1998年に活動休止するが、二人の約束は今でも続いている(久留間寛吉『なぜ宇崎竜童と阿木燿子はお互いに好きな事をしてもうまくいくのか』あっぷる出版、2007年、参照)。 1998年以降はソロ・アーティストとして活動。2008年にはデビュー35周年を迎え、2枚組のブルースアルバム、同じく2枚組のベストアルバムのリリース、記念ライブが行われた。 2008年4月10日、憲政記念館で開催された「天皇皇后両陛下御大婚五十年をお祝い­する集い」に臨席し、祝辞を述べた。 2013年8月22日と23日、第38回湯布院映画祭にて音楽を担当した作品および出演した作品が特集上映される。上映後は夫人でもある阿木燿子と共にシンポジウムに参加。その後ライブ&トークショーが同会場で行われ映画にまつわる九曲を披露し好評を博した。 エピソード[編集] 人物[編集] よく比較される「キャロル」と「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」は、デビュー自体は半年程度しか違わない。しかしこの差が宇崎を悩ませた。宇崎らも最初は皮ジャンを着ていたが、キャロルが篠山紀信に写真を撮られ大々的に売り出されると「キャロル」の物真似と散々言われた。やむなく皮ジャンでないものを探して、たまたま「つなぎ」に行った。『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』が出るときに「キャロル」は華々しく解散。「矢沢永吉って人間には常に先に行かれたって気があった」と話している。『スモーキン・ブギ』が2位になった時、楽屋で一緒になると「キャロル」の方は、シングルヒットがなかったことで「おタク達は泥臭くやって成功したね。ウチらちょっとアカ抜けてたから」と矢沢に言われ「この野郎」と思った。ドラマーの相原誠が元「キャロル」ということもあったこともあり、お互い敵対視していたという。矢沢のことを聞かれると、「意識してないから」とツッパって来たが、実はズッと意識の中にあった。自身は徒党を組むほうでやり方は違うが、矢沢は横縦つながり持たずに一匹狼。ロック・フェスにも出ないし自力であそこまで行けたのは立派だと思う。彼はロックンロールの中で確立しているけど、ぼくはロックンロールよりも、少し広いところで商売している。言ってることを行動に結びつけて実績を作る-それは認めるけど、ぼくは体質的にダメ、等と話している[4]。 富裕層の子息で大学まで私立の一貫教育、性格も至って真面目で品行方正である。大学卒業後は音楽ビジネスの裏方(作曲家、マネージメント)を主要な職域とし、七三分けのスーツ姿をビジネススタイルにしていた。自らが表舞台にシフトチェンジすることになった際、このイメージを破るためにリーゼントなどのいかにもロッカー然としたキャラクターを仕立て上げた。当然不良少年であった経験もない。しかし、一般人はこちらが実態と認識したために、実際の本人と面会すると、未だにこのギャップに驚かれることが珍しくない。 同様にルックスから暴走族出身やもしくはバイク好きのように思われているが、実際にバイクの免許を取得したのはこのイメージが出来上がってから随分後である。一時は数々のレースに出場したり、友人の風間深志、高橋伴明、根津甚八らとツーリングチームを結成するほどバイク熱が高まっていたが、生来の飽き性のためバイクもあっさりと興味が薄れてしまい、現在はバイクよりも自転車を使用する方が多いという。 ライブなどでパワフルに演奏する様などから、活動的でスポーツ好きと思われる傾向があるという。しかし、実際には極度のスポーツ嫌いで、わずかな移動もすぐに乗り物に頼ってしまう。それを反省し、今までに2、3箇所のスポーツクラブの会員になるが「わざわざ疲れるところ(スポーツクラブ施設)への移動も疲れるし面倒」と億劫な気持ちが先立ってしまい、いずれもわずか1日で行かなくなってしまった。 夫人の阿木燿子は、明治大学の同級生で同じ軽音楽クラブだった[5]。キャンパス内を歩いている阿木を初めて見たとき「僕の奥さんになる人が歩いてきた」と思ったという。宇崎の一目惚れであったと公言して憚らない。妻のことは学生時代から、本名である「広子さん」と呼んでいる。また、学生当時はガチガチのアイビーファッションだった。 酒に強そうなイメージを持たれていることが多いが、実はまったくの下戸であり、大の甘党である。特に饅頭やケーキなどには目がない。それに対し、夫人の阿木は酒好きで強いと有名である。晩酌をする妻の横で宇崎は茶を飲み、甘味に舌鼓を打つことも珍しくないという。 友人の占い師が「木村だと業界で生きていけないだろう」と云うことで色々な占いの結果、「宇崎」の姓を貰った。[6] 活動[編集] 明大付属中野中学・高校時代はブラスバンド部に所属し、明治大学時代は軽音楽クラブに所属しトランペットを担当していた[7]。 グループサウンズのザ・ガリバーズ、ホットミルク(アイスミルク)、松崎しげるなどのマネージャーをしながら、1969年ジュリーとバロンのシングル「ブルー・ロンサム・ドリーム」で作曲家としてデビュー(作詞は阿木燿子)。 マネージャー時代、ドサ周り営業中にステージに乱入。トランペットを吹いて肝心の商品(歌手)より目立ってしまったというエピソードもある 過酷な作曲、演奏活動の末に難聴を患い、音楽活動を控えた時期もあった。現在は補聴器を使用しながら作曲などをこなしている。 毎年8月に静岡市清水区(旧・清水市)で開かれている「清水みなと祭り」のイベント「港かっぽれ総おどり」において長く伝わり親しまれる曲を作って欲しいという地元からの要望に応える形で、宇崎が「港かっぽれ〜KAPPORE FUNK」を1987年に制作。これ以降毎年みなと祭りの時期には清水を訪れ、地元の住民らと交流を続けている。2007年放送の『鶴瓶の家族に乾杯』(NHK)では、このエピソードをもとにして、笑福亭鶴瓶と宇崎が清水を訪れた。 交友[編集] 所ジョージの芸名の名付け親でもあり、所は宇崎の下で付き人(ボーヤ)をしていた。所の歌『化けて出ている』(『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』のパロディ)にゲストとして参加している。 ラブ・ポーションのデビューの際は推薦者として名代となる(Diana Ross Presents Jackson Fiveのような感じで、ハロプロにおけるつんく的役割)。 サザンオールスターズの曲『Hey! Ryudo!』のモデルであり、『ごめんねチャーリー』の歌詞にも登場する。 ジャズヴァイオリニスト寺井尚子とも交流があり、november eleventh1111でのライブなど何度もセッションを重ねている。 duvetica the north face グレゴリー マッキントッシュ ピーコート オーチバル ストゥーシー nixon フレッドペリー regal ダッフルコート

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