2014年12月31日星期三
初夢
初夢(はつゆめ)とは、新年のある夜に見る夢。この夢の内容で、1年の吉凶を占う風習 がある。 字義どおりに新年最初に見る夢とされることは少なく、現代では元日(1月1日) から2日の夜、または、2日から3日の夜に見る夢とされることが多い。
ノースフェイス
タトラス
avirex
ショット
トリッカーズ
tumi
マムート
フィデリティ
coach
桧山進次郎
桧山 進次郎(ひやま しんじろう、1969年7月1日 - )は、京都府京都市右京区出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)。一部メディアでは、「檜山進次郎」と表記[2]。
通算代打起用回数・代打安打数・代打打点数すべて歴代2位記録。
1995年から2005年頃までレギュラー、2006年からは主に代打で活躍した。打席に立つたびにスタンドから盛大な声援を受けるほどの人気選手で、代打に定着してからは、メディアやファンから(八木裕に次ぐ)「代打の神様」と呼ばれることが多かった。愛称は「ひーやん」、「ひー」、「悠久の若虎」など。
在日韓国人3世[2]で、本名は黄 進煥[2](ファン・ジナン、ハングル:황진환)。日本に帰化する意思はないことを明言している[2]。また、2013年の現役引退を機に、「ベースボール&スポーツコメンテーター」という肩書でホリプロとマネジメント契約を締結[3]。2014年からは、朝日放送の野球解説者・日刊スポーツの野球評論家も務める[4]。
経歴[編集]
プロ入り前[編集]
京都府京都市右京区出身。桑原征平は京都市立西院小学校の先輩にあたる。平安中学校に通っていた中学生時代には、1982年劇場公開の松竹映画「蒲田行進曲」の京都ロケへ、台詞なしのエキストラとして参加した経験を持つ[3]。
平安高校を経て、東洋大学へ進学。東都大学野球リーグ通算76試合出場、261打数83安打、打率.318, 13本塁打、45打点。ベストナイン3回。第20回日米大学野球選手権大会日本代表に選出された際は後にプロでチームメイトとなる金本知憲と同室になった。
1991年のプロ野球ドラフトで、阪神から4位指名を受け入団。入団会見で「巨人がオロナミンCならば、リポビタンDのCMをしたい」と笑いを誘った。
プロ入り後[編集]
1995年のシーズン後半から不調の亀山努に代わって終盤まで6番・右翼手で起用された。
1996年には5番・左翼手に定着し、中日ドラゴンズの野口茂樹から2試合にまたがって4打席連続本塁打を放つなど22本塁打を記録。来日外国人を除く阪神在籍野手で、1シーズンに20本以上の本塁打を放った左打ちの選手は藤田平・掛布雅之に続いてこの年の桧山が3人目であった[5](本拠地の阪神甲子園球場は「浜風」の影響で右翼方向に打球が飛びにくいと言われている)。
1997年は4番・右翼手として出場し、共に前年の自己最高を更新する23本塁打・82打点を記録。しかし打率は2割台前半で三振も多く、確実性の面で課題を残した。
1998年もレギュラーとして出場するが、坪井智哉の台頭により定位置の右翼は奪われた形になる。また、開幕カードで2番スタメンを経験した。
1999年には開幕に出遅れたことや不振などもあり、出場試合は95試合に留まり、2000年にはトニー・タラスコらとのレギュラー争いに敗れ代打要員となった。
2001年にはタラスコ解雇に伴いレギュラーに復帰し、シーズン後半は帰国したイバン・クルーズに代わって4番を務める。無理に長打を狙わないことで当時の史上7位・球団記録となる28試合連続安打や自身初の打率3割を記録。また、この年からチームの選手会長にも就任した。
2002年は主に5番・右翼手として出場。終盤に左肩亜脱臼で戦列を離れ、チーム失速の一因となった。濱中治の台頭に加わり、オフに広島東洋カープから金本知憲のFA移籍が決定的になると、レギュラー構想の説明を求めるなどフロントと揉めた末にFA宣言するが、他球団からのオファーはなく、また星野新監督の慰留もあり権利を行使した上で阪神に残留した。
2003年は濱中が4番・右翼手に入り、桧山はキャンプから一塁手へのコンバートに挑戦した。開幕当初は、ジョージ・アリアスや片岡篤史(いずれも内野手)との併用扱いで一塁手として出場。4月10日に一軍公式戦への通算1000試合出場を達成すると、同年18日はプロ入り後初めてのサヨナラ本塁打を記録した。濱中が右肩の負傷で戦線を離脱した5月以降は、「4番・右翼手」としてレギュラーに復帰。7月2日の対中日戦で史上58人目(62度目)のサイクル安打を達成。チームは18年ぶりにリーグ優勝した。日本シリーズでも4番・右翼手として出場し、第5戦で決勝適時打、第6戦で本塁打を放ち優秀選手賞を獲得。同年、選手会長を退任して後任の今岡誠に引き継いだ。
2004年5月5日の対広島戦で1イニング2三振のプロ野球タイ記録を作るが、シーズン成績は自己新の84打点、打率.306, 打撃スタイルを変えた2001年以降では最多の18本塁打を記録した。
2005年はシェーン・スペンサーとの併用扱いで出場。シーズン序盤は打撃不振に見舞われたが、8月25日にはプロ通算1000本安打、同月31日にはプロ通算150号本塁打をそれぞれ記録。尻上がりの調子でシーズンを終えたものの、通算成績は過去数年に比べてやや下降した。
2006年は主に代打として出場するが、不振にあえぎ一軍定着後最低の打率.180を記録。代打としても出塁率.300・打率.208に終わった。同年、2度目となるFA権を取得したが行使せずに残留。
2007年シーズン当初は二軍で5月4日に一軍合流したが、濱中に加えて桜井広大や林威助などの台頭もあって前年より更にスタメンの機会は減り、控え外野手としても葛城育郎の好調の陰に隠れた。8月21日の対東京ヤクルトスワローズ戦で松岡健一から、自身初の代打満塁本塁打を放ちチームの逆転勝利に貢献。次の試合もタイムリーを放つなど、シーズン終盤には随所で勝負強い打撃を見せた。9月5日には、一軍公式戦への通算1500試合出場を達成している。しかし、通算打率は、前年に続いて1割台と低迷。さらに、代打での打率は.186と、前年から大きく落ち込んだ。10月15日、『デイリースポーツ』紙の1面に「阪神を退団」という記事が掲載され、桧山自身が自らのサイトでこれを否定する一幕もあった。
2008年は進退をかけて臨み、開幕直後から代打で安打を重ねて高橋光信や葛城育郎らと共に代打として活躍。勝負強さを買われてセ・パ交流戦を中心にスタメンでも起用された。打率3割をマークし、この年から八木裕に代わる「代打の神様」として定着した。
2009年も主に代打として出場したが、前年よりも打撃成績は落ち込んだ。10月4日の対中日最終戦で、同年限りでの引退を表明した同学年の立浪和義に対し、阪神を代表して慰意の花束を贈呈した。
2010年は5月18日の対福岡ソフトバンクホークス戦で遠井吾郎の球団記録に並ぶ代打通算108安打[6]、6月4日の対オリックス・バファローズ戦で球団新記録となる代打通算109安打を記録した[7]。また9月16日の対横浜ベイスターズ戦では、代打で登場した金本が怪我のため守備につくのが困難なことや、他の控え外野手を使い切ってしまっていたことから、9回裏1イニングだけライトのポジションについた。この年守備についたのはこの一度であるが、桧山が打席に立たずに守備だけで出場するのは、2007年7月6日の中日戦以来3年ぶりのことであった。
2011年は、5月8日の対横浜戦の7回に適時打を打ち、代打での通算86打点で球団3位タイの記録に並び[8]、5月14日の対中日戦で9回裏二死に代打で登場して本塁打を放ち、球団新記録の代打通算14本塁打および球団3位の代打通算87打点を記録した[9]。シーズン終了後の11月22日には、海外FA権を行使せずに阪神への残留を表明。しかし翌23日に、自身の公式サイト「桧舞台」が主催するイベントで転倒して左鎖骨を骨折(後述)。同月30日に手術を受けた[10]。
2012年には、前述の骨折の影響で、公式戦の開幕直前から一軍に合流。開幕から代打での起用が続いていたが、5月27日の対埼玉西武ライオンズ戦では5番右翼で先発出場。スタメンは2009年6月13日の対千葉ロッテマリーンズ戦以来3年振りだが、守備についてのスタメンとなると2008年8月7日の対広島戦以来4年振りであった。しかし代打では、8月23日の中日戦で安打を放ったことを最後に、翌年5月8日の対巨人戦(東京ドーム)まで22打席ノーヒットが続いた[11]。
2013年も開幕から一軍に帯同すると、前述の巨人戦で自身23打席振りの安打を放つとともに、球団新記録でセ・リーグ史上第3位となる代打通算99打点を挙げた[12]。5月12日の対ヤクルト戦でも適時打を放ち、宮川孝雄、浅井樹に次ぐ代打通算150安打、宮川・川又米利に次ぐ代打通算100打点(ともに史上3人目)を記録。8月7日の対広島戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)では、セ・リーグ歴代単独2位となる代打通算155安打を放った[13]。9月7日に今季限りでの現役引退を表明[14]。引退試合となった10月5日の対巨人戦(甲子園)には、「5番・右翼手」でスタメンに起用されたものの、3打数0安打で8回表の守備から交代した。最終打席となった第3打席は一塁ゴロ。試合後のセレモニーでは「今日ここまで皆さんと共に2回のリーグ優勝を僕は手に入れました。しかしながら、日本一という称号はまだ手に入れてません。この忘れ物をいつか必ず取りに来ます。その時はまた、ファンの皆さん、タイガース球団の皆さん、一緒に戦いましょう。本当に僕は幸せ者でした。22年間、ありがとうございました」と挨拶した[15]。なお、チームがシーズン2位でクライマックスシリーズ(CS)への進出を決めていたことから、引退試合の後も広島との同シリーズ・ファーストステージ(甲子園)に出場。第1戦では、7回裏1死1・2塁からの代打で遊飛に倒れた。しかし第2戦では、5点ビハインドで迎えた9回裏2死1塁の場面で代打で登場。2003年の日本シリーズでの広澤克実(41歳6カ月)の記録を更新するポストシーズン史上最年長(44歳3カ月)本塁打となる2ラン本塁打をライトスタンドに放つ。しかし、チームは4対7で敗れたためCSでの敗退が決定。結果として、前述の本塁打を放った打席が、桧山にとって現役最後の打席となった[16]。
現役引退後[編集]
2013年10月23日付で、セントラル・リーグから任意引退公示[17]。これを機に、阪神タイガースを退団した。同年12月1日付でホリプロとマネジメント契約を締結。「ベースボール&スポーツ・コメンテーター」として活動することを表明した。
2014年からは、朝日放送の野球解説者や、日刊スポーツ新聞西日本(大阪本部)専属の野球評論家を務める[4]。同年2月20日には、現役時代に阪神のコンディショニングコーチや個人トレーナーとして桧山と接してきた仲田健(ホリプロ所属のストレングス&コンディショニングコーチ)との共同執筆による自身初の著書「代打の哲学」が、幻冬舎から刊行された。同年3月31日には、自身初の単著「待つ心、瞬間の力」を、廣済堂出版から発売している。
社会貢献活動[編集]
阪神の現役選手時代から、公式サイトの「桧舞台」をベースに、以下のような社会貢献活動を展開。「桧舞台」内の「チャリティー」ページで、活動の成果を随時報告している。
2002年 - 2013年:母子生活支援施設で暮らす子どもたちを、甲子園球場の公式戦へ招待。2011年には、この活動に対して、同年に創設されたばかりの「第1回若林忠志賞」を阪神球団から授与された[18]。
2003年 - :「神戸レインボーハウス」(2002年の阪神ヘルメットスポンサー・あしなが育英会が運営する阪神・淡路大震災遺児のための施設)を毎年訪問。遺児たちとの交流を図ると共に、寄付金を贈呈。
2010年11月:出身地の京都市と、甲子園球場がある兵庫県西宮市内に対して、児童養護施設および関連施設への図書費を寄付[19]。
2011年 - :自主トレーニング先のグアムの日本人学校を訪れたうえで、生徒たちとの交流を図りながら、学校へ寄付金を贈呈。現役引退後の2014年以降も、グアムでのトレーニングと寄付を続けている[20]。
2011年:東日本大震災の発生(3月11日)を機に、桧山のサインが入った数量限定のチャリティーグッズを「桧舞台」で販売したうえで、収益金の全額を日本赤十字社へ寄付。プロ野球シーズン中にも、楽天とのセ・パ交流戦で仙台へ遠征した際に、現地の仮設住宅を慰問した[21]。
また、プロ野球のオフシーズンには毎年、ファン参加型のチャリティーイベントやチャリティーオークションを実施。チャリティー活動の収益金を、「24時間テレビチャリティー委員会」へ全額寄付している。
2011年11月23日に京都府宇治市で開催のチャリティーイベントでは、子どもたちとの交流企画であったキックベースボールで女児を抱えながら打席から一塁へ走ったところ、バランスを崩したため女児をかばって左半身を地面で強打。その後の診断で左鎖骨の骨折が判明したが[22]、女児は大事に至らず、桧山自身も翌年にはオープン戦の終盤から一軍へ合流できるまでに患部が回復している。
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仁科仁美 結婚へ 年商150億円社長と春にも「すごく尊敬」
俳優の松方弘樹(72)と女優の仁科亜季子(61)元夫婦の長女でタレントの仁科仁美(30)が31日付で所属事務所との契約を終了し、結婚秒読みとなったことが同日、分かった。
芸能一家に育った仁美が選んだのは“玉の輿(こし)婚”だ。相手は昨年6月に週刊誌で交際が伝えられた、年商150億円ともいわれる4歳年上の飲食店チェーン店社長の男性。
2人は昨年1月ぐらいに共通の友人の紹介で知り合い、交際をスタート。食事デートや旅行などで愛をはぐくんできたという。仁美はテレビ番組で男性との交際を認めた際、「仕事に対してものすごくまじめ。すごく尊敬しています」と幸せあふれる笑顔で語っていた。
昨年4月、兄で俳優の仁科克基(32)はタレントの矢吹春奈(30)と破局。当時、2人が同居していたマンションに、克基がキャバクラ勤務の女性を連れ込み、帰宅した矢吹と鉢合わせした“修羅場”が話題となった。
そんな兄の騒動の一方で、妹は男性との時間を大切にするため、仕事を控えるなどして着実に幸せをつかんだ。
◆仁科 仁美(にしな・ひとみ)本名同じ。1984年(昭59)11月1日、京都府生まれ。03年、ロッテ「CRUM」のCMで芸能界デビュー。06年に下着メーカー「トリンプ」の14代目イメージガールを務める。04年NHKのドラマ「御宿かわせみ」で女優デビューした。血液型A。
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仁科仁美 結婚へ 年商150億円社長と春にも「すごく尊敬」
俳優の松方弘樹(72)と女優の仁科亜季子(61)元夫婦の長女でタレントの仁科仁美(30)が31日付で所属事務所との契約を終了し、結婚秒読みとなったことが同日、分かった。
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◆仁科 仁美(にしな・ひとみ)本名同じ。1984年(昭59)11月1日、京都府生まれ。03年、ロッテ「CRUM」のCMで芸能界デビュー。06年に下着メーカー「トリンプ」の14代目イメージガールを務める。04年NHKのドラマ「御宿かわせみ」で女優デビューした。血液型A。
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仁科仁美 年商150億円の居酒屋チェーン社長と結婚秒読みか
6月中旬のとある夜、仁科仁美10+ 件(29才)はある男性と人通りの多い週末の東京・六本木を歩いていた。しばらくするとどちらからともなく手を握り合うふたり。仁美は幸せそうな笑顔を浮かべていた。
男性は『塚田農場』や『四十八漁場』などの産直居酒屋を全国に180店舗展開し、年商150億円を誇る株式会社エー・ピーカンパニーの代表取締役社長・米山久氏(43才)だった。
「ふたりは半年ほど前に共通の友人の紹介で知り合いました。その時、仁美ちゃんはおつきあいしていた会社経営者と別れたばかりだったし、彼にも気になっている人がいたので、まさかつきあうようになるとは誰も思いませんでした。でも、もう結婚秒読みなんですよ」(芸能関係者)
兄・克基(31才)は、仁美の親友でもある矢吹春奈(29才)と破局したかと思えば、元嫁の多岐川華子(25才)への未練を公言するなど、恋に奔放。かたや仁美は、つきあう相手は飲みに行って知り合う男性ばかりで「男運がない」と嘆くほどだった。
しかしその裏でちゃっかり、しかもすばやく玉の輿婚に王手をかけていることになるのだが、それを導いた人物こそ、母の仁科亜季子(51才)なのだ。
「亜季子さんは“克基は男だから仕方ないけど、仁美には結婚に失敗してもらいたくない”という思いが強いみたいなんです。これまで男性には苦労してきたし、借金トラブルもありましたからね…。仁美さんのほうもそんな母親を見てきたから、ここ数年つきあう男性は、いつも結婚を意識して選んでたようですよ」(テレビ局関係者)
実は元カレとも結婚の約束をしていたという。
「仁美さんは恋人ができるとすぐに亜季子さんに会わせるんです。それで亜季子さんも一緒に食事に行ったり、ゴルフに行ったりするなかで、結婚の話を持ち出す。そうすると彼のほうは“逃げられない”って思うようになる。それがあの母娘の作戦なんですよね(苦笑)。もちろん元カレとも婚約していたので、仁美さんは別れることになって相当落ち込んでいました。でも亜季子さんは米山さんのことを聞いて、“気持ちを切り替えなさい”って命じたそうなんです」(前出・テレビ局関係者)
亜季子は仁美を励ましながら新たな恋を全力で応援し続けた。そうして今、玉の輿婚まで秒読みとなったわけだ。
「実は米山さんは仁美さんと一緒に暮らす新居を建てているんですが、ひとり暮らしの亜季子さんを思って二世帯住宅にしているんです。米山さんも亜季子さんのことが大好きみたいなんですよね」(前出・芸能関係者)
コロンビア
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仁科仁美
仁科 仁美(にしな ひとみ、1984年11月1日 - )は、日本のタレント、モデルである。
京都府京都市西京区出身。アービング所属。両親は俳優・松方弘樹と女優・仁科亜季子であり(両親の離婚後は母の亜季子が親権を持っている)、芸能一家の出身者としても知られる。
人物
芦屋大学付属高等学校(兵庫県)卒業。放送大学教養学部在学中。特技と趣味は、スカッシュと水泳、日本舞踊。
デビュー以前から芸能マスコミの間で「松方弘樹の娘は相当な美人」と噂され、中学生時代には写真週刊誌に素顔が掲載された。2002年(平成14年)、ロッテのCMへの出演で芸能界デビューし、その後はテレビ番組『王様のブランチ』でのリポーターも務めた。また、キャンペーンガールとして、2004年(平成16年)には「JOMOイメージガール」、翌年には「トリンプ・イメージガール」に選ばれた。さらに、2008年(平成20年)に母・仁科亜季子と共演した映画、『ヒカリサス海、ボクノ船』ではヌードを披露した。
2011年(平成23年)3月に発生した東日本大震災直後、ACジャパンの差し替えCM(後述)が大量に流れ視聴者から「時期的にそぐわない」「しつこい」などの抗議が殺到し注目される。自身のブログにて「自分ではどうしようもなく困惑している」「とても複雑な心境」と、母と連名でのコメントを発表した[1][2]。
親族
父:松方弘樹 - 俳優
母:仁科亜季子 - 女優
兄:仁科克基 - 俳優
元義姉:多岐川華子 - 女優
異母兄:目黒大樹 - 俳優
異母弟:十枝真沙史 - 俳優
父方親族
祖父:近衛十四郎 - 俳優
祖母:水川八重子 - 女優
叔父:目黒祐樹 - 俳優
従姉:近衛はな - 女優(目黒祐樹の娘)
母方親族
祖父:十代目岩井半四郎 - 歌舞伎俳優
祖母:月城彰子 - 元女優
伯母:岩井友見 - 女優
叔母:仁科幸子 - 女優
出演履歴
テレビ番組
王様のブランチ(2005年5月7日 - 2006年3月25日、TBS系列)
サンデージャポン(2011年5月 - 、TBS系列) - 準レギュラー
ほか
インターネット放送
加織と仁美のNowな事情!!(2011年10月4日 - 2011年12月、第1・3・5火曜日22:00 - 22:45、インターネット放送局、生放送、加織と共に出演)
テレビドラマ
大忠臣蔵(1994年1月1日、TBS) - 大石くう 役
名奉行 遠山の金さん 第6シリーズ 第3話「遠山桜と御落胤」(1994年6月30日、テレビ朝日 / 東映) - お光 役
御宿かわせみ 第二章 第16話「源三郎祝言」(2004年7月23日、NHK)
水戸黄門(TBS)
第34部 第16話「お転婆ふたり恋の港町・酒田」(2005年5月9日) - 茜 役
第40部 第18話「鬼の継母と意地悪姉妹・大垣」(2009年12月7日) - おみつ 役
着信アリ(2005年10月14日 - 12月16日、テレビ朝日) - 美輪レイナ 役
マイ☆ボス マイ☆ヒーロー 第8話(2006年9月2日、日本テレビ) - 桜小路瞳 役
新・警視庁捜査一課9係 season3 第2話(2011年7月13日、テレビ朝日) - 椎名綾香 役
月曜ゴールデン「警視庁南平班〜七人の刑事〜5」(2012年7月2日、TBS) - 向山エリカ 役
土曜ワイド劇場「京都南署鑑識ファイル7」(2012年7月28日、テレビ朝日) - 高岡マリ 役
映画
ヒカリサス海、ボクノ船 (2008年) 映画初出演・初主演
舞台
新宿駅〜恋のカーニバル〜(2009年3月・全労済ホールスペース・ゼロ)
DUMP SHOW!(2011年月7月16日 - 31日、サンシャイン劇場・8月10日 - 14日、サンケイホールブリーゼ) - 綾香 役
喜劇「女房は幽霊」(2011年9月6日-25日、京都四條南座)
CM
ロッテ「クルム」 (チョコレート菓子)
JOMO
ACジャパン「大切なあなたへ」(2010年)
母と共演、「子宮頸がん、乳がん、定期的に検診を…」と訴える。
脚注
^ 2011年03月21日のブログ|仁科仁美オフィシャルブログ「仁科仁美の仁仁ブログ」
^ “仁科仁美、ACジャパンCMへの苦情に「とても複雑な心境」”. オリコン. (2011年3月23日) 2011年4月3日閲覧。
マンハッタンパッセージ
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