2014年10月13日星期一

秋山幸二

秋山 幸二(あきやま こうじ、1962年4月6日 - )は、熊本県八代郡宮原町(現:氷川町)出身の元プロ野球選手、現プロ野球監督。現役時代は西武ライオンズと福岡ダイエーホークスで活躍した。ポジションは三塁手、のち外野手。 引退後は野球解説者、プロ野球コーチなどを経て、2009年シーズンからは福岡ソフトバンクホークスの監督を務めている。 経歴[編集] 小学3年生時に母の勧めで地元に設立されたばかりの少年野球チームに入る。小学生時代からバック転をするなどスポーツ万能であったが野球は得意でなかった部類という。中学時代はサードやセンターを守っていた。 熊本県立八代高等学校に進学後ほどなくして野球部に入部し、監督の「お前は背が高いからピッチャーだ」の一言で投手にコンバートされる。3年生時の1980年春の九州大会で準優勝。最後の夏の甲子園熊本県予選では、決勝で大津一洋と伊東勤がバッテリーを務めていた熊本工高に4-6で敗れた[1]。当時から12球団のスカウトに注目されていた[2]ものの、大学への進学意思が強く[2]ドラフトでは指名されなかった。しかし、ドラフト終了後にプロ入りを表明し、巨人、阪急、広島との争奪戦の上[3]、西武の執拗な説得と「君を打者として育てたい」という言葉が決め手になって[2]1981年1月にドラフト外で西武ライオンズに入団した[1]。高校時代も身体能力は抜群であり、入団当時の監督・根本陸夫に「オリンピックの十種競技に出場できる」と言わしめた[要出典]。当時西武のコーチだった伊原春樹も著書の中で「運動神経が抜群で脚力50メートル5秒台、遠投120メートル、鉄棒やマット運動をやらせても、体操選手だったのかと思うほど、簡単にこなします。ご存知のように、バック宙もお手のもの。あの体の大きさで、これだけの身体能力を持った選手は、後にも先にも見たことありません」と記している[4]。 西武時代[編集] 西武入団当時の背番号は71で、入団と同時に三塁手に転向。1年目は消化試合で初の一軍昇格を果たし、初ヒットを放っている。2年目の1982年は背番号が24になり、一軍出場はなかったが、イースタン・リーグの本塁打王(19本)を獲得。 1982年から1983年にかけて、3度野球留学でアメリカ合衆国に渡り、1Aチームのサンノゼ・ビーズ/1983年5月28日 - 8月28日)とアリゾナ・アストロズ(1982年9月中旬 - 10月、1983年9月14日 - 11月1日)でプレーして高く評価される。このような経緯や日米野球で対戦したメジャーリーガーや関係者に高く評価されたことから、「メジャーに一番近い男」と呼ばれていた。共にクリーンアップを担っていたチームメイトの清原和博は「自分は日本専門の選手だけど、秋山さんならメジャーでも通用する」と語り、オレステス・デストラーデも「秋山ならすべてのメジャー球団で主力選手として活躍できる」と語っている[5]。ラルフ・ブライアントも「日本で一番すごいと思った打者は秋山」だと語っている[6]。 1984年、春季キャンプから一軍入りし、7番・サードで開幕スタメンの座を獲得。4月14日にプロ初本塁打。しかし怪我をしたこともあり、54試合出場にとどまる。 1985年、主に6番・サードとしてレギュラーに定着。王貞治と並ぶ史上最年少(23歳)での本塁打40本を記録し、この年三冠王を獲得した落合博満を向こうに回してオールスターファン投票1位を獲得する。これ以降、2002年までファン投票選出され続ける。 1986年、監督が森祇晶に交代。開幕を5番で迎えるが、ジョージ・ブコビッチの不振により4番の座を任される。この年も本塁打を40本以上放ち、初のベストナインに外野手として選出される。日本シリーズでは史上唯一の第8戦で有名な「バック宙ホームイン」を披露する。シーズン終盤、高卒新人の清原と4番を交替し3番に座ったことが好結果を生んだことでAK砲の原型を完成した。オフに背番号を1に変更、結婚もした(後に離婚→現夫人と再婚)。 いわゆる「バック宙ホームイン」は、当時の地味なイメージを払拭するために「何か派手なパフォーマンスを」と考え出されたもの。文化放送ライオンズナイターの名物リポーター中川充四郎のアイデアであり、中川が番組内で秋山に約束させた(元々は「サヨナラホームランを打ったらバック宙をする」という約束だった)。過去に5度(パ・リーグ公式戦で2度、日本シリーズで3度)披露した。初披露は1986年の日本シリーズ「第8戦」(広島市民球場)の6回に放った同点本塁打のホームイン時で、三塁を回りながら、三塁コーチの近藤昭仁に「やっていいですか?」と許可を得てから行ったが、この時は当時の広島方面から相当の顰蹙を買った。またこのバック宙の際、最後の両足の着地と同時にその足がホームベースを踏んでいるというつもりであったが、少し手前で着地してしまったため、後ずさりするような形でホームを踏んだ。その他、1987年にサヨナラホームランを打った時は着地点がホームベースを通り越していたため、前かがみで右手でホームにタッチした。1990年の対巨人戦、1991年の対広島戦でも披露。最後となった対広島戦では、着地後尻もちをつき、以後封印することとなった。1991年のシリーズで披露したホームインはアメリカのスポーツ専門ケーブル局であるESPNのスポーツセンターでプレイ・オブ・ザ・デーで紹介されたこともある[7]。 1987年、これまではスタメンはサードで入り、勝ち試合の守備固めでセンターを守っていたが、バッティングに集中させるという狙いでセンターに転向。西武打撃陣が軒並み打撃成績を落とす中、3番・センターの「定位置」へ定着したこともあってか、秋山1人が成績を維持。5月21日に日本人最速で通算100本塁打を達成し、最終的に43本塁打で3年連続40本塁打以上を記録する。前年オフに落合が中日に移籍したこともあり、初の本塁打王のタイトルを獲得。史上初の40本塁打・40盗塁も期待されたが、38盗塁で惜しくも達成ならず。 1989年、初の3割を記録。打率.301、31本塁打、31盗塁で日本プロ野球史上5人目のトリプルスリーを達成。 1990年、盗塁王を獲得。35本塁打、51盗塁を記録し、プロ野球史上初の30本塁打・50盗塁を達成[1]。また、史上初の本塁打王受賞経験者による盗塁王となった[1]。2年連続300刺殺(フライアウト)を達成し、外野手としての評価も確立する。当時の西武の日本人選手の中では、秋山が年俸1億円に最も近いと言われていた(1990年の秋山の推定年俸は8,400万円)。しかしこの年のオフの契約更改で、清原を名実ともにチームの顔にしたいと考えた球団の意向により、秋山は推定9,800万円の掲示を受ける。秋山はこれを不服として闘ったが、最終的に判を押す。秋山が契約更改において一発でサインしなかったのはこの年だけである。この時に球団から「1億円プレーヤーとなるには君には華が足りない」と言われたのが、翌年の躍進の引き金となった[8]。 1991年、2度のサヨナラ本塁打を含むサヨナラ打3度でチームを引っ張る1年となる。オールスターゲーム第2戦12回表に右目に自打球を当て負傷退場、右目の視力は0.7から0.2にまで低下した。日本シリーズでは4本塁打を放ちMVPを受賞している。これらの活躍が評価され、正力松太郎賞も受賞。推定年俸は1億4,000万円と大幅アップした。 1992年、前年に引き続き安定した成績を挙げ、チームも3年連続パ・リーグ優勝を達成。日本シリーズでは2度の決勝打を放つなど3年連続日本一に貢献、優秀選手賞を受賞した。 1993年は、30本塁打を放つ(=9年連続30本塁打以上は現在もパ・リーグ記録)も低調なシーズンとなり、日本シリーズでは6番で出場した試合がある。シーズンオフに渡辺智男、内山智之とともにダイエーの佐々木誠、村田勝喜、橋本武広との大型トレードが発表される[9]。 ダイエー時代[編集] 黄金時代の西武ライオンズから弱小球団だった福岡ダイエーホークスに移籍してきた秋山は、移籍当初ダイエーの選手たちに「勝ちたい」という意識が薄いことに愕然としたという。当時のダイエーの選手たちは怠惰で、藤本博史らが試合前のロッカーで将棋を指すなど、常勝西武の控え室を知っている秋山にとって、彼らの態度は信じ難いものだったという。西武からダイエーに移籍した工藤公康の著書によると、森が監督だった時代の西武の控室は他の選手には近寄り難い緊張感があったと言われている。 秋山の背中を見て小久保裕紀が育ち、さらに後を追うように松中信彦、城島健司、斉藤和巳、井口資仁など後の強豪ホークスを支える選手たちが育ち、現在の若手選手は彼らを手本として練習に励む(NHKプロ野球70周年の特番で水島新司が秋山本人の前で証言)[10][11]。小久保は王と秋山について「尊敬する野球人」と述べ、秋山に対する印象を質問されて「常にプロ意識を持っていた。『できないのは選手が悪い、プロならできて当たり前』という考え方。決して『人間ならそのくらいにミスはあるさ』といった姿勢がみられない。言い訳をしない。その姿勢と意識の高さを学んできた。」[12]、松中も「秋山さんはプレーで示してくださる方でした。秋山さんのプレーからは、チームを引っ張るには、ああいうプレーが必要なんだと、感じるものがありました」と語っている[13]。 1994年9月17日の対ロッテ戦から10月7日の対西武戦まで11試合連続で長打を放ち、プロ野球史上最長記録となった。オフに入籍(再婚)。FA権を取得した。一度はFA権を行使して他球団へ移籍することをほぼ決意していたが、当時監督だった根本に説得される形(実際には秋山の母親からの願いを受けて)でFA権を凍結。秋山が引退までホークスに骨を埋める決意を固めたのはこの時だと言われている。以後、秋山は獲得したFA権を行使せずに引退した。 1999年からダイエーの初代主将に就任。シーズン終盤からは1番・ライトで出場し、文字通りチームを牽引した。西武との優勝争いの最中であった9月8日の対西武戦で松坂大輔から顔面に死球を受け頬骨を骨折するが、その後の試合ですぐにベンチに復帰。フェイスガード付きの特製ヘルメットを作ってスタメン復帰も果たし、9月25日の優勝決定試合で先制点となる先頭打者本塁打を放つなど、ダイエー初の優勝に大きく貢献する。中日ドラゴンズとの日本シリーズでは、第1戦で野口茂樹から先制本塁打、第2戦で川上憲伸から先頭打者本塁打、第3戦では守備で右翼フェンスを駆け上がり飛球をキャッチしその後一塁ランナーも刺すという超ファインプレーを披露するなどの活躍を見せ再びMVPに輝き、20世紀のプロ野球史上で最年長(2011年に小久保裕紀が40歳で記録更新)および史上初の2球団での日本シリーズMVP受賞を達成した。 2000年、シーズン開幕戦で先頭打者本塁打を放つ。8月18日、対ロッテ戦で出場2000試合目で2000本安打達成(史上28人目、ドラフト制度確立後のドラフト外入団選手では史上初)[14]。6月1日に通算1588三振を記録し、歴代1位に(2004年に清原和博が記録更新)。 2001年、キャンプ中に右肩を痛め、二軍で開幕を迎えた。 2002年、「(同年の)優勝が現実的に遠のき、気持ち的にもやっていくことがなくなった」と語り、8月26日に現役引退を表明。引退試合は10月5日(西武ドーム)と10月6日(福岡ドーム)双方で行われ、それぞれ超満員の観客が秋山の現役最後の雄姿を見届けた。西武ドームでは秋山が打席に入るとダイエーの応援団からはダイエー時代の応援歌が、西武の応援団からは西武時代の応援歌がそれぞれ交互に演奏された。そして、西武ドームでの試合後には西武の選手たちから、10月6日の福岡ドームでの引退試合ではダイエーの選手たちから胴上げされ、大観衆の涙を誘った。さらに福岡ドームの引退試合では、相手チームであったロッテの選手・観客も、試合終了後も残って秋山の引退を見送り、秋山が球界の宝であったことを実感させる引退試合となった。現役最終打席はライトライナー。 背番号1は福岡ダイエーホークスの永久欠番となる予定であったが、柴原洋が1番を希望し、秋山も了承したため永久欠番とはならなかった。 現役引退後[編集] 2003年から2004年までRKB毎日放送・TBSテレビ・TBSラジオ野球解説者、西日本スポーツ野球評論家として活動。また、文化放送にゲスト解説として出演することもあった。 2005年、ダイエーの後身であるソフトバンクの二軍監督に就任。2007年からは一軍の野手総合コーチを歴任した。体調不良で出場辞退した王貞治に代わり、コーチとして初めてオールスターゲームへ出場した。 2008年9月23日にシーズン終了を以っての退任を表明した王の後任として、10月2日にホークス新監督に就任し、2011年までの3年契約と発表された。 就任2年目の2010年9月26日、チームを7年ぶりのリーグ優勝へと導いたものの、クライマックスシリーズファイナルステージでロッテに敗れ、日本シリーズ出場ならず。 2011年10月1日、全球団勝ち越し・2位以下17.5ゲーム差という圧倒的な強さでチームを2年連続リーグ優勝に導く。11月5日のクライマックスシリーズファイナルステージで、埼玉西武ライオンズに対し、ストレートの3連勝で8年ぶり14度目(南海時代含む)の日本シリーズ出場を決めた。日本シリーズでは、クライマックスシリーズ・セの覇者となった中日ドラゴンズを4勝3敗で破り、福岡ソフトバンクホークスとして初、そして監督就任後初の日本一を達成した。 2014年10月2日パシフィックリーグ優勝監督インタビュー。福岡ヤフオク!ドームにて。 2014年1月17日、野球殿堂博物館より佐々木主浩、野茂英雄の元メジャーリーガー2人と共に競技者表彰により野球殿堂入りしたことが発表された[15][16]。 吉田カバン リー converse addict nike plus プーマ リーボック colehaan 靴 メンズ redwing thrasher ホーキンス innovator adidas originals

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