2014年11月26日星期三
細川紙
細川紙は、昭和53(1978)年4月26日に、その漉く技術が国の重要無形文化財に指定されました。現在、比企郡小川町と秩父郡東秩父村のみでその技術が保持されています。
細川紙とは、紀州高野山麓の細川村で漉かれていた細川奉書が、江戸時代の始まりとともに、江戸の中心部にほど近いこの小川周辺に入ってきたものと言われています。
しかし、実際に小川でその細川紙が漉かれた時期については不明な部分が多く、はっきりとしたことは今でもわかっていません。
ただ、江戸時代初期の延宝7(1679)年の記述では、「小川紙」という記述があり、その後の安永6(1777)年の記述でも、細川紙はなお紀州の紙として挙げられています。
一方、元禄7(1694)年に江戸十組問屋が結成されてから、大阪の紙問屋を経由しないで大量の紙を江戸に出荷するようになっていることから、この時期に「細川紙」を漉くようになったと思われます。
細川紙とは、貴族や武家などの高級な奉書紙ではなく、近世商家や町方や村方役所で好まれた庶民の生活必需品としてつくられてきたものです。見た目の美しさよりも強靭なものである必要があったわけです。
細川紙が江戸時代に移入されたとしても、小川周辺にはそれよりも前から紙漉きが行われていたと言われています。「小川紙」もしくは「武蔵紙」と言われたもので、古くは宝亀5(774)年の記録で「武蔵国紙480張筆50管」と正倉院文書にあるのが初見です。
承和8(841)年には、武蔵国男衾郡大領であった新羅系渡来人の有力者であると言われる壬生吉志福正が、2人の息子が納めるべきいわば租税を、兄のため紙80張、弟に160張を前納したという記録が見られます。
このことから、既に8世紀から9世紀にかけて、この周辺で紙漉きが行われていたものと考えられています。渡来人が大陸から紙漉きの技術をもたらしたものとも推定されています。
また中世、慈光寺が創建され、その必要性から紙漉きも隆盛を極めたとも言われていましたが、確証には欠けています。
江戸時代、細川紙の生産業者は男衾、比企、秩父の武州3郡20ケ村で、その漉家705戸をようする一大和紙生産地でした。最近における最盛期は明治27年ごろまでで、漉家は1070戸あったと言われています。大正時代には580戸、昭和27年には240戸と年々少なくなっています。
細川紙の要件としては、原料は楮のみであること、伝統的な製法と製紙用具によること、伝統的な細川紙の色沢、地合などの特質を保持することが挙げられます。
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