2014年12月26日星期五
黒田博樹
黒田 博樹(くろだ ひろき、1975年2月10日 - )は、大阪府大阪市出身のプロ野球選手(投手)。
父は元プロ野球選手の黒田一博。
経歴[編集]
プロ入り前[編集]
父・黒田一博が監督を務めたボーイズリーグのチーム・オール住之江で活躍。上宮高から東都の専修大学へ進学。上宮高では控え投手だったが、大学では力をつけエースに君臨。チームは4年生春から東都大学1部リーグに昇格する。同年から大学野球でのスピードガン場内表示が始まった神宮球場において、大学生で初めて球速150km/hを計時した。1部リーグ通算6勝4敗。
広島時代[編集]
1996年、ドラフト逆指名2位で広島東洋カープに入団。
1997年、4月25日の対読売ジャイアンツ戦にて初登板・初先発・初勝利・初完投の快挙を達成。その後も同じ新人の澤崎俊和と共に先発ローテーションに入り、勝ち星こそ伸びず負けが先行したが規定投球回をクリアした。
1998年は、いわゆる「2年目のジンクス」にハマってしまい、わずか1勝でシーズンを終える。
1999年、シドニーで行われたインターコンチネンタル杯に日本代表として出場し韓国戦で勝利、台湾戦で完封勝利を収める。同年、カープの先発ローテに名を連ねる。
若い頃はスピードはあるものの制球難で、好投したかと思えば次の登板で初回5失点するなど好不調の波が激しく、成績も不安定であったが、2000年9月20日の巨人戦から閉幕まで4連続完投勝利を挙げ、一本立ちを果たす。
2001年、オールスターゲームに初出場。初の二桁12勝をマークしチームの勝ち頭になる。
2002年、途中先発ローテーションから外れたが、2年連続二桁勝利を達成。
2003年、それまでのエース・佐々岡真司に代わって初の開幕投手となる。前半は不調で勝てない時期が続いたが、後半から本来の調子を取り戻し、最終的に13勝を挙げ3年連続2ケタ勝利を達成し、アテネオリンピック野球アジア予選にも出場。
2004年、6月20日に自己最速の157km/hを記録。アテネオリンピックでは野球日本代表に選出され中継ぎとして2勝し、銅メダル獲得に貢献。
2005年、4月15日の横浜戦で三浦大輔と互いに完封リレーを行い0-0というスコアで引き分けた。オールスターゲームにファン投票で選出され4年ぶりの出場を果たし、リーグ最多勝利で初タイトルを獲得。タイトル料込みで年俸2億円に達する。
2006年の国別対抗戦WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)に選出されるも、2月24日の12球団選抜との練習試合で打球を右手に受け負傷。出場辞退を余儀なくされる。5月31日にFA権を取得。本人は「これを機に他球団の評価も聞いてみたい」と語った。6月まで5勝6敗、防御率、WHIP1.11と安定した投球を続け、オールスターゲーム出場直前の7月2日の中日戦からは負け無しの8連勝を記録。7月は4勝0敗、防御率0.84、WHIP0.78の活躍で月間MVPをチームメイトの栗原健太と共に受賞。更に8月も続けて4勝0敗、防御率1.11、WHIP0.86の活躍で月間MVPを連続受賞。球団史上初の2ヶ月連続月間MVP受賞となった。この時、「広島カープの歴史に名前を残せて嬉しい」と発言した。しかし、9月には右ひじを痛めて長期離脱。10月16日の中日戦で救援で復帰登板、プロ初セーブを記録した。この年、13勝6敗1セーブ、WHIP1.00、防御率1.85で最優秀防御率のタイトルを獲得。1点台でのタイトル獲得は1992年の赤堀元之以来、セ・リーグでは1989年の斎藤雅樹以来の快挙となった。また、テンポの良い投球を評価されてスピードアップ賞を受賞。シーズン終盤、FA移籍の情報が各スポーツ紙を賑わせている真っ只中、ファンが動き、完成させたのが広島市民球場外野席に突如現れた巨大横断幕である。それには多くのファンからのメッセージ、そして大きな文字で「我々は共に闘って来た 今までもこれからも… 未来へ輝くその日まで 君が涙を流すなら 君の涙になってやる Carpのエース 黒田博樹」と記されていた。更にシーズン最終登板試合には満員のファンが黒田の背番号15の赤いプラカードを掲げ球場を赤色に染め上げ、後に「あのファンの気持ちは大きかった」と述べた。この一連のエピソードは翌年7月に『誰がために〜黒田博樹物語〜』(漫画:吉原基貴、原案協力・取材:戸塚啓)として漫画化され、ヤングアニマル(白泉社)に掲載された。オフには監督のマーティ・ブラウンの奨めで渡米し右肘関節のクリーニング手術(数か月で投球可能となる軽い手術)を行った。
FA権取得に伴い、10月15日に球団から「4年10億円+生涯保障、指導者手形」という条件を提示される。そして11月6日に4年12億円(基本年俸2億5000万円+単年最大5000万円の出来高込。当初の条件に出来高を上乗せしている)でFA権を行使せずに残留することを表明。「今後も国内他球団の移籍はない」と明言し、国内なら「生涯広島」を宣言した。なおこの契約は、4年の契約期間内で自由にメジャーリーグ挑戦できるようになっていた。FA権を行使せずに残留を決めたこと、残留会見での「僕が他球団のユニフォームを着て、広島市民球場でカープのファン、カープの選手を相手にボールを投げるのが自分の中で想像がつかなかった」、「僕をここまでの投手に育ててくれたのはカープ。そのチームを相手に僕が目一杯ボールを投げる自信が正直なかった」と発言した。また、この年の選手会のベストエピソード賞に選ばれ、黒田の野球用具を担当するSSKは、社を挙げて黒田をキャンペーンすることを決定した。そして市民に感動を与えたことが評価され、広島市は「広島市民表彰」を黒田に授与すると発表した(球団4人目)。
2007年も開幕投手となり、長谷川良平以来球団2人目の5年連続開幕投手となる。またデーゲームは大の得意で、6月3日の楽天戦では2003年7月6日からのデーゲーム13連勝を記録した。7月14日の東京ドームでの巨人戦にて通算100勝を達成した(ちなみにプロ初勝利も東京ドームでの巨人戦だった)。オールスターゲームに2度目のファン投票選出で4度目の出場。例年夏場を得意としていたが、この年の8月からはクオリティ・スタートすら守れない試合が続き、8月と9月は2勝3敗、防御率4.58、WHIP1.48を喫した。
10月18日にFA権を行使する事を明らかにした。MLB球団は以前から黒田に目を付けており、特にテキサス・レンジャーズゼネラル・マネージャーのジョン・ダニエルズが興味を示した発言をしていた。ジョー・アーボンとスティーブ・ヒラードと代理人契約を結び、12月1日に球団本部長の鈴木清明へメジャー挑戦を決断したことを報告[1]。記者会見では「評価されるのもカープのおかげで、また日本に帰ってプレーするならこのチームしかない」とも語った。
12月15日、ロサンゼルス・ドジャースと3年3530万ドルで契約を結んだことをAP通信が明らかにした[2][3]。これにより、カープ初の日本人メジャーリーガー誕生となった。背番号は18だったが、会見場では08番を着けた。これはユニフォームが間に合わなかったためであり、同年にドジャースとマイナー契約したロバート・ブースが先に背番号08番を着けていた。ドジャースから当初提示された条件は4年契約だったが、「ワクワクする気持ちはほとんど湧いてこなかった。戦地に行くつもりでアメリカに行く。4年間もそんな苦しいことはできない。『苦しい時間』が短い方が自分は頑張れる。3年間できちんとした成績を残せれば、4年目に同等かそれ以上の契約を交わせるはずだ」として契約年数短縮を自ら申し出た[4]。
northface
the north face
グローバーオール
avirex
schott
マッキントッシュ
orcival
dr martens
パラブーツ
订阅:
博文评论 (Atom)
没有评论:
发表评论