2014年9月30日星期二
小田幸平
小田 幸平(おだ こうへい、1977年3月15日 - )は、兵庫県高砂市出身の中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手(捕手)。
愛称はODA(オーディーエー)[1]など。
プロ入り前[編集]
兵庫・市川高校では甲子園に出場することはなく、卒業後は社会人野球の三菱重工神戸でプレーする。
1997年のドラフトで読売ジャイアンツから4位指名を受けて、入団。
巨人時代[編集]
守備は即戦力級であり、ルーキーイヤーの1998年から毎年一軍での出場機会を得る。しかし打撃に難があり、3番手以降の捕手という評価に止まり、一軍で定着出来ないシーズンがしばらく続く。
1999年は、開幕一軍だったが、開幕直後の横浜戦で村田真一の負傷退場に伴い守備に就いたものの、先発ガルベスが最大9点あった点差をひっくり返されて逆転負けした責任を取らされ即二軍落ちとなり、10月まで昇格できなかった。
2004年、プロ7年目で初本塁打を放った。課題であった打撃に成長が見られたこの年以降、出場機会が増えていく。
2005年には、正捕手の阿部慎之助、2番手であった村田善則に次ぐ巨人の3番手捕手として出場することが多かった。結果、巨人在籍時で最多となる31試合に出場した。
12月13日、FAで巨人に移籍した野口茂樹の人的補償として、中日ドラゴンズに移籍。
中日時代[編集]
2006年、移籍して間もなく正捕手である谷繁元信がWBCへの出場で戦列を離れたため、オープン戦ではほぼスタメンで出場。打撃はともかく、守備とリードがとても良いと評価された。シーズンが開幕すると谷繁の体力の衰えや打撃面での極度の不調などもあり、主に移動後での1戦目や交流戦などで先発起用された。また、山本昌との相性の良さから、同投手の先発時はスタメンで起用されることが多かった。結果、2番手捕手として一軍に定着し、谷繁の後継者として期待される存在となる。
11月の契約更改では1300万円増の3600万円でサインした。本人は満足できる数字を残したシーズンではなかったが、谷繁の控え捕手として働いたことやムードメーカーとしてベンチからチームを盛り上げたことが高く評価された。
2007年、背番号が40から26へと変更される。これについて落合監督は「26を小田、28を(ドラフト希望枠で入団した)田中大輔に付けさせ、26、27(谷繁)、28で正捕手を争えばいい」と話していた。シーズンでの起用形態は前年とほぼ同じだが、山本昌の不調もあり、出場機会は若干減少した。
同年オフに視力矯正のためにレーシック手術を受け、視力が回復したことにより以後は眼鏡なしでのプレーとなる。
2008年、付けていた背番号26を大学・社会人ドラフト1巡目で名城大学から入団した山内壮馬が付けることになり、背番号が28に変更された。
シーズン当初は控えだったが、5月に谷繁が故障で離脱すると先発マスクを被ることが増えた。しかし、谷繁以上の信頼を得ることはできず、山本昌とのバッテリーも谷繁に奪われてしまい、チャンスを活かせず、課題が残る結果に終わった。それでも、移籍後最多となる41試合に出場し、オフの契約更改では増額を得た。
しかし、秋季キャンプでは両足痛で途中離脱。更に、背番号28をドラフト5巡目で明治大学から入団した岩田慎司が付けることになり、52に変更され、中日に移籍してから4年連続で背番号を変更することとなった。
2009年は、シーズン開始直後に谷繁が怪我で離脱し、先発マスクの機会を得るが、4月18日の試合で逆転負けを喫した際に、落合監督からリードの悪さを指摘され[2]、その翌日以降、前年に日本ハムから自由契約で移籍してきた小山桂司に先発マスクを譲ることとなる。谷繁が復帰するまでは主に岩瀬仁紀が登板する際に出場するなど終盤の守備固めでの出場が多かったが、谷繁の一軍復帰と同時に二軍落ちすることとなった。すぐに復帰したが、程なくして再び二軍落ちした(その後、7月31日に一軍復帰)。勝負どころでの度重なるバントの失敗、また打率が.050を切るなど、打撃面での弱さも仇となって、終盤の守備交代時の起用が多くなった。
2010年は、中日移籍後初めて同じ背番号を2年連続で付けることになった。新人の松井雅人が第3捕手として開幕一軍を果たしたため、開幕を二軍で迎えることとなった。しかし、6月18日に谷繁の怪我もあってようやく一軍昇格。以降は先発レギュラーとなり、谷繁の復帰後は併用されるようになった。7月16日から20日にかけてのチームの5試合連続完封に貢献。5試合のうち2試合で先発出場し、16日は2年ぶりのマルチヒット、19日は決勝の3点適時二塁打を放つなど、少ない打席ではあるが、打率.274の成績を残し、チームの優勝に貢献した。10月23日のクライマックスシリーズ・ファイナルステージ第4戦の4回にも、試合の均衡を破る先制2点適時二塁打を放っている[3]。内角を果敢に突く一方で死球も多く、8月20日ナゴヤドームのヤクルト戦ではリーグ最多タイの5死球を与えている。試合は相手投手館山の無四死球完封により、本拠地13連勝を逃す結果となった。
2011年は、キャンプで足首を痛めたため(後に一時実戦復帰するも体調不良で再び離脱)、開幕を二軍で迎えることとなった。しかし、6月29日に一軍昇格。その後は小山桂司と併用されている。7月5日の対阪神戦ではプロ入り初となるサヨナラヒットを放った。この年に加入した投手であるエンジェルベルト・ソトが先発する際には、小田がスタメンマスクを被る。オフに国内移籍が可能なFA権を初めて取得したが、残留を決めた。会見では「(球団に)残って欲しいと言われたのと、まだひつまぶしと味噌煮込みうどんを食べたい。あとブランコから焼き肉を食べようと言われたので」とジョークで笑わせたが、実際には悩みに悩み抜いての残留だった。
2012年は福田永将や田中大輔等の若手捕手の台頭もあって出場機会を減らしたが、引き続き第2捕手としての存在感は示した。しかし、前年とは打って変わって球団と揉め、「別に(来年)おらんでもええんじゃないかという話し方だった。来年残ってほしいなら、そういう言葉や評価があるはず」と怒り、FA移籍を示唆する発言をしたが、球団が態度を改め残留。
2013年は8月28日のヤクルト戦(神宮球場)でクラーク、高橋周平に続いてホームランを打ち、2004年以来9年ぶりの一発となった
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