2014年10月31日星期五

訃報:元長崎市長・本島さん 反核に尽力

31日、92歳で亡くなった元長崎市長10+件、本島等(もとしま・ひとし)さんは銃撃事件に屈することなく1995年の市長退任後も戦後の残された課題について発言を続け、最期まで反核・平和運動に尽力した。本島さんを知る人たちからは悼む声が聞かれた。  本島さんの市長時代、被爆者援護などについて何度も意見を交わした長崎原爆被災者協議会の山田拓民・事務局長(83)は「差別について非常に鋭い目を向けていた。懐が深く誰とでも話ができる人だった」と振り返り「もっと話をしたかった。本当に残念」と死を悼んだ。  また、川野浩一・長崎県平和運動センター被爆者連絡協議会議長(74)は「教員時代、公衆浴場で教え子の背中を流しながら人生について語っていた。市長になっても庶民性は最後まで変わらなかった。市長をやめた後も座り込みに参加するなど反戦平和のシンボル的存在として運動を支えていた。亡くなったのは運動にとって大きな打撃だ」と語った。  反核や平和を訴える市民団体が毎年1月1日に長崎市の平和公園で開く「正月座り込み」に本島さんと参加していた同市の被爆者、山川剛さん(78)は、昭和天皇の戦争責任発言について「言うよりも撤回しなかったことがまれな出来事で、彼でなければ堅持できなかった」と語り「権力と対極にある人に注ぐ目は温かかった。長崎の顔がまた一つ失われた」と声を落とした。  強制連行され、被爆死した中国人32人を悼む碑が2008年、長崎市の平和公園に設置された。本島さんは、その碑の建立委員会代表を務めた。追悼式には毎年出席し今年7月もつえをつきながら碑に献花した。尖閣諸島などを巡り緊張する中で「日中友好のため、中国人強制連行問題の解決は最優先の課題だ」とあいさつした。  昭和天皇の戦争責任を巡る発言に端を発した銃撃事件から20年となった2010年1月には長崎市での集会で元衆院議員、野中広務氏と対談。本島さんは「戦争を起こしたのは日本人で、その結果が原爆。(戦争被害に遭ったすべての国や人に対し)心から謝罪しないと今後の日本の生きる道はない」と懸念を語っていた。 bvlgari 時計 ジーショック フォッシル ハミルトン 時計 ルミノックス ニクソン noon 時計 rolex エクスプローラー vivienne paul smith 時計 フォリフォリ

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