2014年11月28日星期五
中村紀洋
中村 紀洋(なかむら のりひろ、1973年7月24日 - )はプロ野球選手(内野手)。いわゆるジャーニーマンである。
愛称は「ノリ」。家族は妻の浩子(元実業団バレーボール・日立の選手)と3女。元プロ野球選手の村上隆行は義兄(妻の兄)。さらに広島東洋カープに所属する中田廉とも遠戚関係にある(中田の母の妹が村上の妻で、村上の妹の夫が中村になる)
来歴・人物[編集]
プロ入り前[編集]
大阪府大阪市出身。1985年4月17日の阪神タイガース対読売ジャイアンツの試合を観に行き、バックスクリーン3連発を観客席で見ていた[1]。
大阪府立渋谷高等学校時代は、1990年の全国高等学校野球選手権大阪大会で2年生ながら4番打者として活躍、4本塁打を放つ。守備でも三塁手兼投手として活躍し、チームを甲子園初出場に導く。甲子園では初戦(2回戦)で敗れたが、大阪府立高校の出場が8年ぶりであったということもあり、話題となる。高校通算35本塁打。
高校時代の同級生に大鳥れい(元宝塚歌劇団花組トップ娘役)がいる。
1991年のドラフト4位で近鉄バファローズから投手として指名を受け、入団。背番号は66。同じ73年生まれのプロ野球選手は「第2次ベビーブーマー」と呼ばれた世代であり、イチロー、松中信彦、小笠原道大、石井一久、三浦大輔、黒木知宏、小坂誠、薮田安彦など一時代を築いたスター選手が数多く存在する。
近鉄時代[編集]
1992年、高卒新人ながら公式戦に出場しシーズン2本塁打を記録(パ・リーグ高卒新人で本塁打2本以上は清原和博・田中幸雄以来6年ぶり)。1994年には故障した金村義明の代役として台頭。9月18日の日本ハム戦(藤井寺)でサイクル安打を記録した。プロ入り後初の三塁打がこの記録に結び付いた。
1996年から左手首の故障に悩まされる(これまでに左手首の手術を3回受けている)。1997年には、背番号を石井浩郎の着けていた3に変更。1998年には、リーグ2位の32本塁打を放ち、自身初のシーズン30本塁打達成。左手首の故障から完全復活を果たした。
1999年は初の全試合出場を達成し、ゴールデングラブ賞を獲得。2000年にはシドニー五輪の野球競技に日本代表として参加も4位に終わる。4位が決まった直後に涙した全日本のメンバーは多かったが、中村はインタビューでテレビカメラの前でも人目を憚らず号泣した。シーズンでは二冠王(本塁打王、打点王)を獲得するが、近鉄は2年連続のパ・リーグ最下位。シーズン終了後、推定年俸3億円(1億6,000万円増)プラス出来高払い5,000万円で契約更改。シアトル・マリナーズに移籍したイチローに代わり、パ・リーグの日本人最高年俸選手になる。
2001年、開幕前に背番号を、西武ライオンズに移籍した義兄・村上嵩幸の着けていた5に変更。4番打者として活躍し、打点王を獲得した[2]。3・4番合計101本塁打(タフィ・ローズ55本、中村46本)は、1985年での阪神(ランディ・バース54本、掛布雅之40本)を上回る最多記録を更新。翌シーズンにFA権の取得が予想される中、近鉄から複数年契約(推定6年契約35億円)を提示される。しかし、12月26日に「1か月で判断するのは難しかった」と複数年契約を拒否し、推定年俸5億円プラス出来高払い1億円の単年契約を結ぶ。大阪教育大附属池田小学校の慰問活動が評価され第3回ゴールデンスピリット賞を受賞している。
2002年7月14日にFA権を取得。右足首痛、持病の腰痛をこらえ、52打席ぶりの一発。「メジャー移籍はあまり頭にない」と話していたこともあったが、11月5日にはFA宣言し、シーズン終了後から「中村紀洋というブランドをまず考えて、近鉄で終わっていいのか」と悩み抜いた末に、FA宣言することを決めたという[3]。12月19日には700万ドルでの2年契約プラス3年目のオプション600万ドルでニューヨーク・メッツと契約合意したと報じられるが、12月20日にこれがメッツの公式HPに載ったことに「そんな球団は信用できない」と激怒し交渉を白紙に戻す。そのため、近鉄と再交渉を行い、監督の梨田昌孝らから慰留されたこともあり、12月21日に近鉄残留を表明した(推定4年契約20億円プラス出来高払い)。この件について中村は「確かにメッツと契約寸前までいっていた。しかしマスコミ関係から合意のネタが飛んできた。ルール違反する球団とは契約できない」とコメントし、代理人を務めた音楽プロデューサーの茂田雅美も当初は「守秘義務に違反したメッツの勇み足だった」とメッツの姿勢を批判したが、後にMLB機構とメッツから「中村側が違約の根拠としている公式ホームページの文書はMLB機構や球団の認可を受けたものではない上に、問題の記事はメッツと無関係の人物の情報に基づいている。今回の交渉に関し、メッツのルール破りは一切ない。また中村と彼のアドバイザーの茂田氏は各球団が選手との契約に先立ち契約内容をMLBに報告する必要があることを知らないと思われる。健康診断にパスした時点で拘束力のある合意が成立する」との声明が出され、茂田氏はこれを受けて「メッツが言うように、合意していたということに関して異論はない」と認め、中村の「メッツのルール違反」というコメントについて「あれは彼の言葉が足らなかった」と語った(音楽プロデューサーを本職とする茂田氏が代理人を務めたのは、中村が節税を目的に設立した会社の監査役を務めた縁から)[4]。
2003年5月半ばに右膝を傷め6月10日に右膝半月板損傷と診断されるものの、「自分が欠場するわけにはいかないから試合に出ながら治す」と言い、出場し続けた。しかし、ケガの影響で不本意な成績が続き、近鉄もリーグ3位に終わる。アテネ五輪の予選を兼ねたアジア野球選手権への参加を辞退し、10月17日に右膝を手術。これ以降、成績に直結する故障が増える。
2004年右膝のリハビリを兼ねてロサンゼルス・ドジャースのスプリングトレーニングに招待選手として参加した。渡米前に歯並びの治療を受けていたが、キャンプで守備練習中にノックの打球を歯に受け、帰国後にオープン戦を欠場し、治療を受けた。アテネ五輪の野球競技には日本代表として参加して銅メダルを獲得した。しかし、試合後の宴会で右足裏を負傷し、9月10日まで欠場した。
欠場中、団野村を代理人として、ポスティングシステムによるメジャーリーグ入りを企図していることが報じられる。11月3日にメジャーリーグ入りの意思を表明。会見で近鉄と2年前に結んだ契約にポスティングシステムによるメジャーリーグ移籍を容認する内容が含まれていたことを明かした[5]。11月8日の選手分配ドラフトの結果、合併球団オリックス・バファローズに振り分けられた。12月1日に合併球団が発足、4年契約の2年目を終えた時点で球団が消滅してしまったため、残りの契約期間の年俸(2年分10億円)に相当する保証金を近鉄に要望、うち3億円が功労金として支払われた[6][7]。近鉄在籍時代に記録した307本塁打は球団記録となった[8]。
2005年1月25日にポスティング申請し、近鉄と業務提携していたロサンゼルス・ドジャースが落札し。2月3日、ドジャースとマイナー契約(推定1年契約50万ドル)を結ぶ。背番号は近鉄入団当時と同じ66に決まった[9]。
この年発生した奈良小1女児殺害事件では被害女子が近鉄のファンで自身の娘と同年代ということもあり、サイン入りの野球用具を贈り霊前に供えられた。
ドジャース時代[編集]
4月2日にAAA級パシフィック・コーストリーグのラスベガス・フィフティワンズへ合流するように通告されたが、4月10日には故障者リスト入りしたアントニオ・ペレスに代わって、念願のメジャー昇格を果たした。しかし、5月8日の試合後、メキシカンリーグでプレーしていたオスカー・ロブレスが40人枠入りしたのに伴い、40人枠から外される。ウェーバー公示にかけられたが獲得を希望する球団が現れなかったためAAA級への降格を了承、再びラスベガスでプレーする。
ラスベガスでは、本塁打こそリーグ17位の22本を放つも、打率.249は規定打席を満たした選手90人のうち85位と低迷、OPS.818は打者優位の本拠地で平均OPS(投手も含む)が.798のチームにあっては平凡であった。守備ではチーム最多の20失策を記録。9月5日にAAA級のシーズンが終了。団野村との代理人契約を解除し、日本球界復帰を目指した。
12月21日、分配ドラフトからドジャース入りまでの間、一時在籍したオリックスへの復帰を表明[10]。推定年俸2億円プラス出来高払い5,000万円の単年契約。背番号は8[11]。
オリックス時代[編集]
2006年、「帰ってきたで」というキャッチコピーのポスターが製作され、ドラフトによる西武入団から20年ぶりに出身地である関西地方へ戻ってきた清原和博との共演が話題となるが、開幕前に右足に肉離れを起こし、4月28日に左手親指を捻挫。更に5月13日の対ヤクルト戦で木田優夫からの死球を左手首に受けて負傷。負傷した箇所をかばいながら出場している間に右手首も痛めるという故障続きのシーズンとなる。8月11日に左肘に死球を受け途中交代するとその後は試合出場がなく、日本球界復帰1年目は85試合出場、328打数、76安打、打率.238でシーズンを終える。二塁打22、本塁打12はチーム2位を記録した。9月に左手首を手術。
契約交渉では中村が左手首の故障を「公傷」と主張したのに対し、球団側はそれを認めず、60%減の8,000万円(推定)の単年契約を提示。
2007年1月12日までに6回の契約交渉が行われるが合意に達せず、球団側は契約更改を断念。中村の退団が決定する。その後、トレードを試みるも獲得球団はなく、1月17日に正式に自由契約選手となった。中村はオリックスを除く11球団からの連絡を待ちながら、各球団の春季キャンプが始まった2月1日以降も「架空のキャンプイン」と称して自主トレーニングを続ける。なお、この一件がきっかけとなり、2008年9月19日に日本プロフェッショナル野球組織と日本プロ野球選手会との間で戦力外通告ならびに野球協約を超える大幅な年俸ダウンに関するルールが取り決められた。
2月12日、中日ドラゴンズからテスト生としてのキャンプ参加を呼び掛けられ、同15日から同チームのキャンプに参加[12]ここで入団テストを行い、同25日、育成枠での中日入団が決定(年俸400万円)。背番号は205。これは中日の育成選手が慣例として200番台を与えられることと、近鉄時代に背番号5を着用していた中村に落合博満が配慮したものである[13]。
中日時代[編集]
育成枠で中日入団を果たすとオープン戦で結果を残し、リーグ戦開幕直前の3月22日、年俸600万円[14]で支配下選手契約を結び、背番号も99[15][16]に変更された。開幕戦から公式戦に出場し、序盤は5番や6番を、シーズン後半は故障で離脱した福留孝介の代役として3番を、クライマックスシリーズと日本シリーズでは主に5番を任された。広角に打ち分けるバッティングで打率.293(チーム3位)、2年ぶりの20本塁打(同2位)、79打点(同3位)で日本一に貢献した。9月10日には北京オリンピックアジア予選決勝リーグ日本代表候補に選出された。 日本シリーズでは持病の腰痛が悪化していたため鎮痛剤を射ちながら強行出場し、打率.444(18打数8安打)、4打点と活躍。11月1日の第5戦にて日本一を決め、日本シリーズMVPを獲得した[17]。日本一決定後のヒーローインタビューでは男泣きを見せた。アジアシリーズでは帰国したタイロン・ウッズの代役として4番に起用された。 11月30日に行われた中日との契約更新では、3月の新規契約時より733%アップ[18]となる年俸5,000万円の提示を受けこれを一発で了承し、契約更新となった。記者会見では「契約してくれるだけでもありがたい。額を見ずに判を押すつもりだった」と述べた。
2008年6月15日、父の日に日本メンズファッション協会・日本ファーザーズ・デイ委員会が主催する「2008年度ベスト・ファーザー イエローリボン賞」を、同年から12球団から1人ずつ選定することを受けて、中日から選出された。京セラドーム大阪でのオリックス対中日戦の試合前に行われた授賞式では、「芸能人がもらう賞だと思っていた。縁がないと思っていたので嬉しい」と大いに照れながら、近鉄・オリックス時代の元同僚・北川博敏と共に表彰された。試合直前には娘3人と記念撮影。4月14日に自身2回目のFA権を取得するが、当初FA宣言には否定的な姿勢で「そんなことより来季契約してくれるだろうか、そのことが心配です」と語っていた。FA権を再取得したことも記者に尋ねられるまではその時期にきたことを知らなかったと言っていた。5月7日から自身が出演する浜乙女のラジオCM(東海ラジオ ガッツナイターのみ)が放送開始。6月17日、石川県立野球場での対西武戦で大沼幸二から2ラン本塁打を放ち、通算100猛打賞を達成。また次の打席で、元同僚の岡本真也からサヨナラソロ本塁打を放ち、通算サヨナラ本塁打記録が9本となり、王貞治・若松勉を抜き歴代3位となった。11月、中日残留も視野に入れつつ、「他球団からの評価も聞いてみたい」と2度目のFA権行使。11月25日に東北楽天ゴールデンイーグルスと1回目の入団交渉を行い、11月29日に正式に楽天への移籍を表明。楽天球団初のFA加入選手となった。
12月5日に仙台市内で入団会見。背番号は自身の希望もあり、中日時代と同じ「99」となった。
楽天時代[編集]
2009年4月5日、札幌ドームでの対北海道日本ハムファイターズ戦でブライアン・スウィーニーから移籍後初本塁打。この日は4安打5打点と大当たりだった。その後は本塁打も全く出ず打率も低調、また持病の腰痛も悪化したこともあり、6月9日から6月25日まで登録を抹消された。一軍復帰後、7月11日の対ソフトバンク戦で佐藤誠から71試合ぶりとなる本塁打を放った。シーズンの前半戦終了時、監督の野村克也は打率2割前後、わずか2本塁打という不調に低迷した中村に対し、「ノリは誤算。もう少し打つと思ったが…」と語った。その後も調子は戻らず8月3日に一軍登録を抹消されると、再登録されることなくシーズンを終えた。結局加入1年目は打率.221、本塁打2本、26打点と、期待とは大きくかけ離れた成績となってしまった。
2010年、序盤は調子が良く、前半はチーム打線が不調に喘いだため交流戦などでは4番を任された。一時は打率3割を記録したが、後半以降は徐々に下降。また、守備でも後半になるにつれイージーミスが目立つようになった。シーズン終盤には走塁中に肉離れを起こして一軍登録を抹消される。10月1日に球団から戦力外通告を受け、退団した。12球団合同トライアウトには参加しなかったが、地元・大阪で自主練習をしながら他球団からのオファーを待つ形となった。2011年2月には徳島インディゴソックスの合同自主トレに参加した[19]。
横浜・DeNA時代[編集]
2011年5月23日、横浜ベイスターズへの入団が発表された[20]。翌24日に球団事務所で入団会見を行った。入団の話は、前日22日に加地隆雄球団社長より電話があったことが明らかにされた[21]。背番号は中日、楽天時代と同じ「99」となった。 6月8日に一軍登録され、同日の楽天戦(Kスタ)に「7番・一塁手」でスタメン出場した。6月18日、横浜スタジアムでの福岡ソフトバンクホークス戦で代打で出場し、杉内俊哉から移籍後初本塁打。この本塁打で同点に追いつき、ターメル・スレッジの本塁打でチームは勝利した。この年は当初は代打要員がメインだったが、対左投手時のスタメンや守備固めでの起用も増えた。10月13日の阪神戦(横浜スタジアム)では、急遽プロ入り初めて二塁手でスタメン出場した。最後まで一軍登録を抹消されることは無く、62試合に出場したものの、打率.209、1本塁打、14打点の成績に終わった。
2012年は新加入のアレックス・ラミレスの故障により、「4番・三塁手」で開幕スタメン出場。その後も主に三塁手や一塁手でスタメン出場。開幕直後から高い得点圏打率を維持し、4月15日の読売ジャイアンツ戦で、延長11回、サヨナラ本塁打を放つ。5月4日の中日戦で岩瀬仁紀から同点本塁打を打ち、史上22人目の全球団から本塁打を達成した。2004年以来8年ぶりのオールスターにも選出され、7月20日のオールスターゲーム第1戦では逆転決勝2ラン本塁打を放ち、5人目となる両リーグでのMVP獲得。8月18日に車のイグニッション・キーを回した際、右肘に違和感を覚え、登録抹消。9月4日に一軍復帰。後半戦は数字を落とすも、チームは最下位を独走する中で主軸として活躍を見せた。ゴールデングラブ賞の投票では一塁手として2票差の2位[22]。
2013年は開幕カードは代打要員だったが、程なくして三塁手のレギュラーに定着[23]。5月1日のヤクルト戦(横浜スタジアム)で日米通算2000本安打を本塁打で達成。イチロー、松井秀喜、松井稼頭央に次いで史上4人目の記録となったが、「日本のみで2000本を打ちたい」という本人の意向を汲んでセレモニーなどは行われなかった(「ドジャース時代の5安打は加算したくない」とも話していた。)[24]。そして5月5日、ナゴヤドームでの古巣中日戦で8回に中田賢一から左中間を破る2点二塁打を放ち、通算2162試合目で史上43人目の日本通算2000安打を達成した[25]5球団に所属しての2000安打達成は加藤英司に次いで二人目。また、2162試合での到達は史上4番目の遅さ、39歳9か月での到達は8番目に遅い記録。ちなみに、チームメイトのラミレスも同年NPB通算2000本安打達成[26]。6月30日の中日戦では山本昌から先制のソロ本塁打を放ち、史上18人目の400本塁打を達成した。同試合では9回裏にサヨナラ安打を放った。
2014年、開幕当初は1軍メンバーから外れたが、ブランコの故障もあり「助けてくれ頼む」と中畑監督自身が電話して1軍昇格させた。沈んでいたチームにモーガンのTポーズを復活させ、チームを軌道にのせた[27]しかし5月6日の対巨人戦で、「チーム方針に従わない言動」として登録抹消[28]。10月3日に球団から戦力外通告を受けた[29]。DeNA球団は在籍中の貢献度が高いことを考慮し、本拠地最終戦にあたる10月2日の中日戦で引退セレモニーを行うことを約束したが、中村は強い現役続行の意思があるため断っている。
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